ファシリテーター
石島:(ビーレガシー)
地域応援メディア「ビーレガシー」のファシリテーター。地域に受け継がれてきた価値や挑戦、この土地の未来を切り開いていく方々に話を伺い、その魅力を伝えている。
御諏訪太鼓(おすわだいこ)とは、諏訪大社に奉納してきた太々神楽・鼓舞楽を伝承する日本三大太鼓の一つ。
戦国時代に陣太鼓としても使われた民俗芸能は、国内だけでなく海外でも高く評価されています。
その御諏訪太鼓を代々受け継ぐ家に生まれたのが、山本麻琴さん。
2歳半から太鼓を始め、後継ぎとして英才教育を受けてきた青年期。 一度は別の道に進みながら再び諏訪へ戻り、この土地で太鼓を受け継ぐ道を選びました。
今回は、山本さんが御諏訪太鼓を継ぐ決意をした背景や、太鼓を通じて諏訪と人をつなぐ現在の活動について、お話を伺いました。
諏訪大社に奉納される「御諏訪太鼓」とは

石島:本日は、御諏訪太鼓を受け継ぐ山本 麻琴さんにお話を伺います。
普段はどのような活動をされているのでしょうか。
山本さん:太鼓の製作や修理、演奏・指導を中心に行っています。
そして、御諏訪太鼓の根幹である諏訪大社様での奉納ですね。元旦と8月1日に諏訪大社境内で太鼓を打っています。
石島:そもそも御諏訪太鼓とは、どういうものなのでしょうか?
山本さん:長野県にある諏訪湖のほとりに、日本有数の古社として知られる諏訪大社があります。その諏訪大社に奉納するための太鼓が御諏訪太鼓です。
はっきりとした起源の記録は残っていませんが、その歴史は戦国時代までさかのぼるとも言われています。
古い文書によると、甲斐の武将・武田信玄が諏訪を統治していた頃、諏訪大明神を戦の神として信仰するなかで、御諏訪太鼓は「太鼓兵(※)」として用いられていたそうです。
石島:そんなに古い歴史があるんですね。
山本さん:その後は、雨乞いや感謝と祈りを捧げる神楽として受け継がれていきました。
ただ、明治時代を境に一度途絶えてしまいます。
それから80年ほど経った昭和26年に、師匠である御諏訪太鼓宗家・小口大八先生が復元を図りました。
石島:その復元をきっかけに、今の形になったと。
山本さん:はい。小口大八先生はもともとドラムを演奏されていた方で、バンドやオーケストラのスタイルに慣れ親しんでいました。
その経験を活かして、大小さまざまな太鼓を使い、複数人で演奏する「組太鼓」というスタイルを生み出しました。
今ではあたりまえになっている和太鼓のアンサンブル演奏の原点が、この御諏訪太鼓にあります。
石島:なるほど。奉納で太鼓を打つときは、普段の演奏とは違う感覚があるのでしょうか?
山本さん:はい。奉納というのは、神様や仏様に捧げるもの。
お米やお酒を供えるのと同じように、太鼓を打つことそのものを捧げます。
なので、人に向けてではなく、神様に向けて打つ感覚ですね。
石島:演奏とは意識が違うんですね。
山本さん:そうですね。この土地で、お諏訪様の前で打つからこそ得られる感覚があると思います。
(※)太鼓兵:歴史的には軍勢のなかで陣太鼓を打ち鳴らし、陣形の合図や兵士の士気を高める役割を担った兵士のこと
太鼓一家に生まれて|「普通の暮らし」に憧れた少年時代

石島:山本さんは、もともと御諏訪太鼓を継ぐという意志が最初からあったのですか?
山本さん:いいえ、最初からこの道を望んでいたわけではありません。
太鼓を代々受け継いできた家に生まれたこともあって、自然と期待される環境ではありましたが、自分のなかでは迷いもありました。
石島:では、御諏訪太鼓とはどのように関わり始めたんですか?
山本さん:特別に「始めた」というよりは、生まれたときから身近にある存在でした。
母方の実家がこの御諏訪太鼓の家元なので、太鼓の音に囲まれて育ったんです。
2歳くらいのときに子どもたちの太鼓演奏を見に行った際、僕が曲に合わせて踊り始めたそうで。
それを見た父(山本幹夫先生)が「この子は太鼓をやりたいんだろう」と感じたようで、2歳半から始めることになりました。
石島:周囲の期待も大きかったのではないですか?
山本さん:そうですね。周りはみんな「この子が継ぐんだ」という雰囲気でした。
ただ、小学3〜4年生くらいから、「これを仕事にするのは難しいかもしれない」と感じ始めました。
石島:それはなぜですか?
山本さん:宗家の存在があまりにも大きかったからです。
大八先生が復元した御諏訪太鼓は、国内外に弟子や門下生が広がっていて、大きな組織になっていました。
太鼓を打てることと、大きな組織をまとめていくことはまったく別の話だと、子どもながらに感じていたんです。
石島:その大きさを間近で見ていたんですね。実際、ご家庭の日常はどのような感じだったのでしょうか?
山本さん:両親共働きで夜は20時や21時まで指導や事務仕事があり、そこから食事。寝るのは0時を過ぎることもありました。
土日も演奏や稽古が入っていて、いわゆる「休み」という感覚はあまりなかったですね。
父がとても厳しくて、午前中に4時間、午後に6〜7時間稽古する日もありました。
お弟子さんが最終電車で帰るような環境に、僕もずっといなければいけなかったんです。
子どもながらに「普通の家とは違うな」と感じていました。
石島:そうした環境のなかで、将来についてはどのように考えていたんですか?
山本さん:当時の僕の夢はサラリーマンになることでした。4〜5年生の頃には本気でそう思っていましたね。
そんな反抗期に入り始めた小学5年生くらいから『阿修羅』という大曲を教えてもらえるようになったんです。
『阿修羅』は、大八先生が生涯をかけて作り上げた代表曲で、今も宗家のように打つことは難しく、僕自身も生涯をかけて挑み続ける大曲です。
当時は、「ついに教えてもらえるんだ」という嬉しさがありました。
ただ、練習は相変わらず厳しくて、学校が終わると毎日道場に来て、夜まで太鼓を打つ生活でした。
石島:それは過酷ですね。山本さん:それに、親の仕事を見ていると、本番で演奏するだけではないんですよね。
お客さんとの打ち合わせや段取り、教室の運営など、裏側の仕事も毎日ずっとやっている。僕はその様子を見ていたので、「これを仕事にするのは自分には難しいかもしれない」と感じていました。
父を亡くし、自分の意志で太鼓の道へ

石島:一度は太鼓とは別の道を選ばれたんですよね?
山本さん:はい。ものづくりが好きだったので彫金の学校に行って、卒業後は地元に戻って指輪やペンダントを作ったり直したりする仕事をしていました。
御諏訪太鼓自体は奉納やお祭りといったなかで続けるつもりでしたが、生業は別に持とうと決めていたんです。
石島:そこから太鼓を生業にしようと思うきっかけは何だったのでしょう?
山本さん:父の他界が大きかったですね。
21歳のころ父の病気がわかり、看病をしながら病院代を稼ぐ日々が続いて、太鼓を打つ機会はほとんどなくなっていきました。
そして26歳のときに父が亡くなったんです。
石島:……そうだったんですね。
山本さん:父が亡くなったときに、自分にとって本当にできることは何だろうと改めて考えたんです。
太鼓は2歳半からずっと続けてきて、曲も全部体に入っている。目をつぶっていても打てるくらい、自分のなかに染み込んでいます。
でも、父が生きている間はどこか「やらされているもの」だったんですよね。しなきゃいけないことだった。
じゃあ、「自分がやりたいこと」として太鼓に向き合ったらどうなるんだろう、と初めて思ったんです。
そこでまずは1年間だけ、太鼓を中心に生きてみようと決めました。
石島:太鼓との向き合い方が、大きく変わった時期だったんですね。
山本さん:はい。自分で演奏の営業に行ったり指導教室を増やしたり、少しずつ活動を広げていったんです。
その頃、自主企画した公演に大八先生をゲストとして招きました。
地元で開催したこともあって、久しぶりに僕が表舞台で太鼓を打つ姿を見た方たちが本当に喜んでくれて。大八先生もすごく喜んでくれたんです。
僕自身も、「もっとやりたい」「もっと教わりたい」と思うようになっていました。
でも、その3か月後に、大八先生が不慮の事故で亡くなってしまったんです。
石島:あまりにも急な出来事ですね。山本さん:周りの方たちから一斉に、「お前が後を継いでいくんだよね」という目を向けられました。
でも、すぐに「任せてください」とは言えなかったんです。
大八先生のお葬式には何千人もの方が来るような、本当に大きな存在でしたから。
ただ、逃げるつもりはなくて。自分にできることを一つひとつやっていこうと歩き始めたのが、27歳くらいの頃です。
今、道場の生徒の3割は移住者|太鼓が地域の入り口に

石島:現在は、長野県岡谷市の道場で地域の方たちに御諏訪太鼓を教えているんですよね。
今の太鼓教室にはどんな方が集まっているのですか?
山本さん:諏訪湖周辺に暮らしている方たちです。岡谷市だけでなく、下諏訪や諏訪、遠くは原村や蓼科の山の方からも通ってくれています。
大切なのは奉納することなので、諏訪大社様での元旦や8月1日の奉納に向けて練習して、一緒に太鼓を打っています。
石島:生徒さんのなかには、移住者の方もいらっしゃるそうですね。
山本さん:はい、生徒の3割くらいが移住者の方です。
募集して集めたわけではなくて、奉納を見て感銘を受けた方や、太鼓まつりを見て「やってみたい」と思って来てくれた方がいます。
石島:地域とつながる入り口にもなっているんですね。
山本さん:まさにそうなんです。別荘をお持ちの方もいるんですが、住んでいても地域のコミュニティとの接点がなかなか持てないことが多くて。
地域のお祭りを見に行くことはあっても、自分が出るなんてことはまずないと思うんです。でも太鼓を始めると、お祭りに出演したり奉納に参加したりと、自然とつながりが広がっていくんですよね。
太鼓が入り口になって、この土地の一員になっていく感覚があります。
石島:東京でも太鼓教室をされているんですよね?
山本さん:はい。月1回、東京のスタジオで教えています。
そこで必ず伝えているのは、御諏訪太鼓は諏訪大社様への奉納が根幹にあるということです。
曲のなかには、諏訪の信仰や歴史、風土や諏訪人の魂が入っている。だから御諏訪太鼓を打つことは、この土地への想いを持つことでもあるんです。
するとみなさん、やっぱり諏訪に来たくなるんですよね。
石島:太鼓を通じて、東京と諏訪がつながっていくわけですね。山本さん:そうですね。東京の生徒さんが諏訪に来てくれるだけでなく、全国規模のイベントにも一緒に参加するようになっています。
たとえば「浅草太鼓祭り」には、日本中から仲間が集まるんですが、最近は東京教室の生徒さんにも参加を呼びかけていて。
太鼓を起点にして、新しいコミュニティがどんどん広がっていくのを感じています。
まとめ:「僕の時代でなくしてはいけない」三代目としての使命

石島:最後に、これからの想いを聞かせてください。
山本さん:2人の師匠に教えていただいて、この環境も含めて残していただきました。
僕の時代で、これをなくしてはいけない。それは強く思っています。
今教えている人たちが、また次の世代へ伝えていく。
僕はあくまでバトンをつなぐ間の役だと思っていますが、次にバトンを受け取ってくれる人を作らなければ、ここで途切れてしまいます。
石島:地域が続くことと、御諏訪太鼓が続くことは切り離せないんですね。
山本さん:そうなんです。地域がなくなってしまったら、奉納する場所もなくなるし、伝えていく場所もなくなりますから。
だからこそ、この地域が続いていけるように、僕だからこそできることに関わっていきたいと思っています。
石島:今日お話を伺って、御諏訪太鼓は単に演奏するだけではなく、この土地や人とのつながりそのものを受け継いでいく文化なんだと感じました。
本日はありがとうございました。
本記事の対談の様子は、動画でもご覧いただけます。
御諏訪太鼓を体験してみたい方へ
御諏訪太鼓に触れてみたい方に向けて、いくつかの体験方法をご紹介します。